観光・名所・旧跡

 

 

城山(ぐすくやま)

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イータッチューの呼び名で親しまれている島唯一の山で、海抜172m。島の中央、やや東よりにそびえ、見る角度によって険しさ、なごやかさ、あたたかさを抱かせます。昭和28年、琉球新報社の提唱する”沖縄八景”の読者選定で、みごと一位に選ばれたほど、イータッチューからの眺めは絶景。
城山は、島より7000年も古く世界でも珍しいオフスクレイブ現象(古い岩盤が新しい岩盤に潜り込む中で、一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象。)によって形づくられた。
オフスクレープ現象は、理論としては語られていたが、実際に目で見ることのできるのは、世界でも伊江村でしかない、古代よりの贈り物。壮大な地殻変動のロマンを伝える島のシンボル・イータッチュー。

 

 

リリーフィールド公園

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北海岸のすばらしい景観を背景に、総面積86,000㎡の敷地に20万球のユリを植栽するとともに、広場、遊歩道、休憩施設を整備し、年中スポーツ、ピクニック、釣り等が楽しめる公園です。

 

 

ニィヤティヤ洞(千人洞)

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川平部落の西側、アキナ原にある洞窟です。戦時中は村民の防空壕に利用され、多くの人々を戦火から守ったことから「千人ガマ」ともいわれるようになりました。
昔から子宝に恵まれないご婦人は、このニィヤティヤ洞を訪れ、洞内にある力石を持ちあげると、その年から願いがかなえられるという伝説があります。旧暦3月には、ノロ(神女)と婦女子のみのお祭りがこの洞窟で行われています。

 

 

島村屋観光公園

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 伝説と民具の里・島村屋観光公園は、沖縄芝居で三大悲劇の一つとして有名な「伊江島ハンドウー小」由来の地です。

 イータッチューを借景したいかにも奥ゆかしさを感じさせる屋敷跡が、たくみに生かされています。伊江島を訪れる人は、きまってこの観光公園を訪ね、島のロマンにひととき、耳を傾けるのです。
◆入園料/大人400/中人300/小人200
 TEL.0980-49-2422

 

湧出(わじー)

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  北の海岸は、屹立する岩場のつらなり、くだける波しぶきの音などいかにも男性的な景観をくりひろげますが、その代表的なところがワジーと呼ばれるところです。真水が湧き出で、本島からの海底送水が実現するまでは、島の重要な水源地だったことから、この名がつけられたという。

60メートルを越える断崖絶壁がつらなり、しおの干満や天候などによって変化し、波濤うずまくさまは一大パノラマを思わせます。

 

 

青少年旅行村・伊江ビーチ

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 島の東側、サンゴ礁が発達したビーチの細長い砂浜に沿って、みごとなモクマオウ林が広がっています。
 沖縄では、数少ない旅行村の一つです。およそ4万坪の敷地には、中央管理棟、遊歩道、テニスコート、野球場、ゲートボール場、キャンプ場、野外ステージ、共同炊事場、シャワー室、トイレなど施設が備えられ、ビーチには売店、展望台もあります。

◆入場料:大人100円/小人50円

◆キャンプ場使用料 :大人300円/小人200円
 TEL.0980-49-5247

 

アーニー・パイル記念碑

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 アメリカが生んだ、世界的に有名な従軍記者、アーニー・パイルは、昭和20年4月18日、伊江島に上陸した米第305連隊と行動を共にして取材中、日本軍の機関銃に射たれて戦死しました。遺体はヘルメットをかぶせたまま粗末な木の十字架の下に埋められ、のちに沖縄本島の陸軍墓地、そしてホノルルのパンチホール・クレーターにある国立墓地へ移されたということです。そして、戦死の地に米軍の手によって建てられたのがこの記念碑で、毎年4月18日前後の日曜日には、在沖米人らが参列して慰霊祭がとりおこなわれています。

 

 

仲村柄節の碑

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(昭和62年10月23日除幕)

仲村柄そばいど 真簾は下げて
あにらはもとまば 忍でいまうれ

歌意 仲村柄家の母屋のそばいど(屋戸口)にすだれをさげてあるときは、大丈夫だから忍んでいらっしゃい。

 

 

芳魂の塔

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 第二次対戦で戦場となった伊江島で、軍人2000人、村民1500人の犠牲者を出しました。その3500余柱を合祀しているのがこの芳魂之塔で、毎年4月21日には村内外の遺族が参列してしめやかに平和祈願祭がおこなわれています。
塔の立っている地は日本軍が立てこもったところです。そこから150メートルの現在の伊江中学校には、米軍が上陸して陣取り、手榴弾を投げ合う肉弾戦を2日間にわたって演じた激戦の地でした。しかも、日本軍は死闘の結果、全員玉砕という痛ましい記録も残されております。
塔の台座には、これも島の生んだ歌人・名嘉元浪村の詠んだ

“ひねもすを とどろとどろと潮騒の
  声をまくらにここだくも 眠れる霊の
   夢まどかならむ”

の歌が、伊是名正信氏の揮亳で刻まれています。

 

 

力(ちから)タンナーバ

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 屋富祖森の近くで生まれた玉那覇は、幼いころより大人顔負けの怪力の持ち主であった。
 ある時、玉那覇はいたずらが過ぎ、母親にきつく叱られてしまった。彼は、母親を困らせようと、台所の入り口を大きな石でふさいでしまった。その石はといえば、子どもが動かしたと信じられないほどの大きさだったという。
 彼は、村の綱引には参加させてもらえなかった。なにしろ彼が一方に加担すると、その側が必ず勝ってしまい勝負にならなかったからである。島で玉那覇の怪力にかなう者はいなかった。ハラクブ池(唐小堀池)を巡る縁石は、彼が一人で城山から運んできたものだという。タッチューの頂上にある石には、力玉那覇の大きな足形といわれるものが残されている。